日常のメモ

日常のメモ

この数日間に考えていたこと

オリパラの音楽担当に名前があったことで、今、小山田圭吾が大炎上している。

この数日間、そのニュースやそれに関する呟きをずっと追ってしまっていて頭の中がめちゃくちゃになっているので、整理するために考えたことを書き出そうと思った。

 

わたしが小山田圭吾のいじめ加害について知ったのは、12、3年前だと思う。

当時仲の良かった友達に子供が産まれ、その友達のパートナーが小山田圭吾の大ファンだったことから、子供の名前を「圭吾」にしたという話を別の友達にしたら、「大ファンなのに、小山田圭吾がひどいいじめをしてたこと知らないの?知っててその名前を付けたなら引く」と言われ、調べてその内容を知り驚愕した。

わたしは大ファンではなかったけど、フリッパーズ・ギターコーネリアスも好きで聴いていたので、複雑な気持ちになった。

だけど、その時はものすごい怒りが湧いたとか、今後一切フリッパーズコーネリアスは聴かない、という気持ちにはならなかった。

わたしも中学生のときいじめられてのに。

Twitterでいろんな人が言っていたけど、その時代の悪趣味ブームを容認してしまっていたこと、いじめを受けていた自分はいじめをしている人よりも人間的に価値がないと、その時は思っていたこと。

いじめをしていたことと、良い作品を作ることは分けて考えた方がいい、良い作品を作る人は何かしら飛び抜けて人と違う部分がある、選ばれた人間なのだから、その一環なのだろうと自分を思い込ませていた部分もある。

その後ももやもやした気持ちはあったけど、フリッパーズコーネリアスも聴いていたし、Eテレデザインあも見ていた。

名前を聞くたび、音楽を聴くたび、いじめのことは頭をよぎったけれど、なるべくそれに触れないようにしていた。

わたしと同じように、知っていたけどなるべく考えないようにしていた人は多いんじゃないかと思う。

 

今まで何度か炎上していたはずなのに、小山田圭吾は何も発信しなかった。

それが今回、これまでとは桁違いの多くの人に知られることになり、発信せざるを得なくなったのだろう。

謝罪文を目にしたとき、(やっと発信してくれた、謝罪してくれた)という気持ちが一番初めに湧いた。

心底ほっとした。

内容どうこうではなく、彼がしたことを知りながら作品に触れ続けていたことで、自分もいじめを傍観しているような、いつもどこかに罪悪感がある状態だった。

 

自分もいじめを受けていた人間で、されたこともしてきた人間の名前も一生忘れない。

ずっと、自分が人をいじめた人間だと後悔しながら生きて欲しい。

でも、もしかして今その人に謝罪されたら、許すことはできないかもしれないけど、自分がしてしまったことを一応は振り返ってくれたんだ、振り返れて良かったね、とは思う。

 

小山田圭吾がしたことは絶対に許されないと思うし、これからもずっと考え続けて後悔し続けて欲しい。

障害を持つ子の親になった今、その気持ちはより大きくなった。

 

だけど、発信してくれたことで罪悪感を持ちながら作品に触れていた人たちの心は、わたしと同じように少しは楽になったんじゃないかと思う。

時代のせいだ、それを今さら蒸し返すのはナンセンスだという意見も見かけたけど、そこで思考停止してしまったら、何も変わらない。

考えていかなければいけない。

そうしなければ世界は変わらない。

 

そんなことを数日間ずっと考えていたのです。

いろんなことが知りたい

藤岡拓太郎さんがTwitterに上げていた聴覚障害の漫画

https://twitter.com/f_takutaro/status/1366676987289292804?s=21

を読んで、わたしも何か書きたいと思ったので。

 

 

我が家には子供が二人いる。

小学4年生の次男は軽度知的障害を伴う自閉症で、小学6年生の長男はADHD。そしてわたしもADHD

次男が自閉症だと判明するまで、わたしは知的障害、発達障害についてほぼ何も知らなかった。

たまたま小学校も中学校も支援学級が無かったし、周りにも障害を持っている人がいなかったから関わることが全然なくて、どこか違う世界の人たちなんだと思っていた。

次男は市の療育園(障害を持っている子が通う幼稚園みたいなところ)へ小学校入学前の3年間通ったのだけど、そこで様々な障害を持っている子たちと出会い、障害についての意識が180度変わった。

みんなかわいくて、独特の感性を持っていて面白い。身体的な障害を持っている子もいたけど、運動会で頑張っている姿を見たりすると、自分の子じゃないのに泣けてしまったり。

障害を持ってるからできないと決めつけるんじゃなくて、本当に少しずつでも、成長できるようにサポートしてもらえて、その成長をみんなで喜べる優しい世界。その世界を知れたことはわたしを大きく変えてくれたし、今でも自分の中で大切な礎みたいになっている。

そこでいろいろな障害を持っている人のことを知れたから、電車に一人で乗っている知的障害の人を見たりすると、(一人で行動できてすごい!)って思うし、心の中で(頑張れ〜!)と勝手に応援している。話しかけられたら普通に話す。電車が好きな人が多いので、電車の話で盛り上がったりもする。

怖がられたり、避けられたりしているのを見るとすごく悲しくなるけど、障害について知っていたら絶対にそんな風に見ることはなくなるのに。今まで機会が無かったんだな、これから知ってもらえたらいいな、と思うようにしている。

 

 

マイノリティーに「合わせる」という言葉に、ずっと違和感を感じている。

マイノリティーに合わせても誰も損しないし、むしろ過ごしやすくなる。だからそれが普通になるべきだと思う。

次男の療育園での生活を見ていて、障害を持っている子だけじゃなく、全ての子供にこういう対応をしてもらえたら…といつも思っていた。

わたしは知的障害、発達障害については、少しは知っているつもりだったけど、聴覚障害についてはあまり知らなかったので、藤岡さんの漫画を読んで、その世界が少し知れて嬉しかった。

マイノリティーが快適に過ごせる世界は、みんなにとっても快適な世界だということ、もっと知ってもらいたいし、自分ももっと知りたい。

知ること、そして理解することで、自分も過ごしやすい世界になると思うから。

もっといろんな人のことが知りたい。

 

諦めることが前より少し上手になった

数日前から、いつも置いてある場所にあるはずのミロが見当たらない。

ミロが飲みたい。でもどこにもない。

 

わたしは片付けと整理整頓が苦手だ。

掃除は好きだけど(ばい菌が嫌いなので)片付けができない。

実家にいる頃から、自分の部屋を片付けろと母から毎日のように言われていた。

ちなみに母も全く片付けができない人だったので、リビングはいつも散らかったまま、というか、物で溢れかえっていた。

友達を家に呼ぶのが嫌だったし、呼んだ記憶がほとんどない。

たまに遊びに行く友人宅は、どこも綺麗に整理されており掃除も行き届いていて、別世界に住んでいる人みたいだなっていつも思っていた。

とにかく昔から片付けができない。

今は家族と住んでいるので、ちょっとはましになったけど、一人暮らししていた時の部屋は、本当にありえないくらい散らかっていた。

 

昔、大好きだった人が突然、うちに遊びに来たい、今すぐ近くにいるから、と連絡してきて、散らかり放題の部屋を見せることと会えることを天秤にかけた結果、会える方を取って家に招き入れたことがあるのだけど、タバコを吸いたいから灰皿貸してと言われて、散らかり過ぎて見当たらない灰皿をやっと見つけて差し出したら「やっぱり吸うのやめる。この部屋でタバコ吸ったら火事になりそう」と言われたことがある。(もちろんその彼とは付き合えませんでした)

そんな感じで生きてきたので、結婚したからといって突然片付けができるようになる訳もなく、相変わらず、散らかった家に住んでいる。

 

片付けられない人の特徴のひとつに、注意散漫が挙げられると思う。

まず、全体を見られない。そしてひとつの場所に集中できない。

作業の途中で気になることがあると、今していることを放り出して気になることを新たに始めてしまい、中途半端になったあれこれが山積みになって、どうにもできなくなる。

それでパニックになり、自分はなんて駄目な人間なんだ…と落ち込み、さらに何もできなくなる。

片付けが終わっていないのに、他のことをすることに罪悪感を感じる。

以前本が読めるようになった - 日常のメモという文章を書いたけど、本が読めなくなったのも、自分が楽しむためにはまず片付けをしなければという考えにずっと捕われていたからだと思う。

 

最近、諦めることを覚えた。

これにはきっかけがあるのだけど(またそのうち詳しく書きたいと思います)家族と話し合い、自分が苦手なことを知ってもらって、理解してもらえたことにより、諦めることができるようになった。

片付けが終わらなくても、諦めて好きなことをしていい。そう決めたら心が楽になって、結果、以前より片付けもできるようになった(まだまだ散らかってはいるけど)

 

ミロがなくなったら、新しいミロを開けてもいい。

きっとそのうち出てくるし、なくなったまま見つかるまでミロを飲まないよりも、諦めて新しいミロを開けた方が、なくしたことに捕われずに前に進めるから。

 

わたしはそうした方が楽に生きていけると分かった。

これからもっと、上手に諦められるようになりたい。

優しくしたい

荷物を送るために行った、ヤマト運輸の営業所のスタッフの人が優しかった。
営業が終わる時間ギリギリだったのに、伝票を書き損じてしまったわたしにも笑顔で、ゆっくり書いてくださいね、あ、手書きじゃなくてこの機械で伝票を作るともう少し割引できるからおすすめですよ、と教えてくれたり。
まだ入って日が浅いみたいで、分からないことは先輩に聞きながら対応してくれた。
先輩もその人に優しかった。

帰り道、モーニング娘。の「ザ ピ〜ス!」のサビの部分がずっと頭の中で流れていた。
以前、つんく♂が「好きな人が優しかった」の歌詞の意味を、好きな人が自分に対して優しかったってだけじゃなくて、他の人や動物に優しかったのを見たらときめく感じ、と説明していた。
好きな人だけじゃなくて、人が人に優しくしているのを見ると、自分が優しくされている気持ちになれるし、自分も誰かに優しくしたいって思う。


ベビーカーと一緒に電車に乗っている人を見かけた時、座っていたら席を譲るし、ドアの前の角に立っていたら、その場所を譲るようにしている。
自分もそうしてもらえた時、嬉しかったから。
以前、東京駅から乗った中央特快で、御茶ノ水駅から乗車された、大荷物を抱えた老夫婦に席を譲ったことがあるのだけど、遠慮しつつもとても喜んでくれて、駅で電車が止まるたび、立っているわたしに何度も「あ!あそこの席が空いた!座ったら?ほら!」と教えてくれたのが、優しくて可愛らしくて、すごく嬉しかったのを覚えている。
頭の中にいろんな記憶をしまっておく場所があって、心が疲れている時に、その引き出しから自分が優しくできた時の記憶を取り出して反芻している。
そうすると、少し元気になる。

 


自分が元気になるためにも、優しくしたい。

 

本が読めるようになった

子供が生まれてから、大好きだった読書ができなくなってしまった。
文字を読もうとしても、目が滑る。
もともと注意散漫だったのだけれど、それがどんどんひどくなり、本を開いても他のことが気になり、読むことに集中できない。


はじめは本が読めなくなっていることに気付いていなかった。
育児はイレギュラーなことの連続で、マイペースなわたしにはなかなか辛い日々だった。
以前なら寝る前にする読書が楽しみで、毎日わくわくしていたのに、本を手に取る気が起きない。
かろうじてあまり考えなくてもいい漫画は読めたので、美味しんぼミスター味っ子、短編のさらっと読める漫画を読んで、なんとか自我を保っていた。


読めなくても本屋や古本屋は変わらず好きだったので、頻繁に行っては毎回気になる本や漫画を何冊か買っていた。読めないのに。
溜まっていく本を見るたびに、憂鬱な気持ちになる。
読めないのに本はどんどん溜まる。
わたしの家には6畳弱の一室に本棚を図書館のように向かい合わせて並べてある書庫があるのだけど、今でもその時期に買った本や漫画が床に積まれている。
きちんと数えてはいない(数えるのが少し怖い)けど、200冊以上はあると思う。
読みたいのに読めない本を買ってしまう自分を軽蔑する気持ちが湧いてくる。
本を読む、本が読めるということがアイデンティティだったのに、本が読めないなんて。自分の存在価値を否定されている気分になる。
友達からおすすめされて借りた本も、もちろん読めない。
読めないけど、早く返さないといけないという気持ちが強くて、読まずに返してしまった本も何冊かある。

 


本が読めなくなってから、写真を撮ることが多くなった。
Instagramを始めて、撮った写真を頻繁に上げていた。
それがきっかけとなり大福書林さんに誘われ、「いいビルの世界」を共著で制作することになった。
刊行された本、自分が関わっている本なのに読めなかった。
写真は見られるし、短い説明は読めるけど、たくさん並んだ文字を読むことができない。
かなりショックだった。

 


それから程なくして、秀和レジデンスのイベントでご一緒させていただいたecodecoの谷島さんから、コラムを書かないか、とお誘いいただき、しばらくecodecoのサイトで秀和レジデンスのコラムを連載させてもらった。
ずいぶん長い間本が読めていないのに、文章を書けるか不安でいっぱいだったけど、好きなものについて書く事はどうにかできた。
毎回、書き上げた後は満たされた気持ちでいっぱいになった。
自分が書いた文章は、一応読めた。
他の文章はまだ読めなかったけど。

 


半年くらい前に、急に本が読めるようになった。
きっかけは去年の11月に、ブックスアンドサムシングという本のイベントで大福書林さんのブースに売られていた野口理恵さん編集の「USO」
様々な人の「嘘」の話の短編集。
気になって買ったその本が、わたしに読めるきっかけをくれた。
すぐには読めなかったのだけど、ある日、なんとなく手に取ってページをめくってみたら、読めた。


短編だったから、毎日少しずつ読み進めて、
全て読み終えたとき、本が一冊読めたという嬉しさで泣いてしまった。
内容も良かったから余計に。

 


今は少しずつだけど、集中して読めるようになった。
読書の楽しさを、また感じられるようになって嬉しい。
本を買うことに、罪悪感を感じなくなったことが嬉しい。
家にまだ読んでいない本がたくさんあることも嬉しい。


読めて嬉しいって思いながら、今日も本を読んでいる。